この本の中で、耳の痛い話も登場する。
「話を聞かない大人たち。」がそれだ。
子どもたちは発見したこと、こんなことがあったよと言葉にすることで、学習する。
親や先生になにかを聞いてほしいとき、「あとにして!」と言われた子供は落胆するし、命令や親の観念的な説教は、意識的な抑圧から言葉を失う。
子どもは愛されたい一心で、死ぬまでその呪縛を引きずって生きる。
”言葉が上手に話せない”、”どもる”、”お話しするときに緊張する”ことは、育った環境にかなり影響されるといわれている。
この事実の推論は飛躍しているだろうか?
一方子どもを信頼し、ほめてあげ子どもの興味のあることをくみ取る親子さんもおおい。
私の同級生は高校合格で親にあるおねだりをしたのだという。
同級生はご両親にバイオリンを希望したそうだ。
彼は進学校に進み、勉強の合間に独学でバイオリンを学んだ。
その後医科大学>>海外の大学院にも進んだ。
現在仙台で小児科を開業している。きょう私は同級生のお母様にバイオリンのことを聞いてみた。
話を聞いて驚いた。同級生はバイオリンを続け、なんと交響楽団で演奏できる腕前になったそうだ。
同級生のお母様は、さりげなく子どもの成長を見守っていたといえる。
私は同級生のお母様のお話を聞いて、ピーター・クライン先生のおっしゃる”統合学習”そのものではないかと思った。
現在、日本の教育機関では指導要領の準じて画一的な授業が行われている。
同じ教科書、全国で同じカリキュラムなのだが、本当にこれでいいのだろうか?
はたして現場での現場の教師や生徒の声は教科書を作る人に届いているのだろうか?
私の知る大学生は尊敬する教授に進学相談に行った。
大学生は教授にどの大学院がいいか?ときいたそうだ。
教授の答えは「日本の大学院はやめておきなさい。」だった。
実務と学問はつながりを見せるものなのだが、実は日本で行われている教育のなかで問題も多いのだそうだ。
時代は刻々と移り変わっているのに、指導者はそのスピードの速さに追い付いていけないのだろうか?
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